ぜくしぃちゃんのブログ

「人生という冒険はつづく。」

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 」感想-「さようなら、」

この記事には「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」をはじめとした新劇場版シリーズ・TV版「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズ全般へのネタバレが含まれます。


2020/03/15 
記事を書き終わった後でEOEを見返していて極めて基本的で、そして大変な誤読に気付いたため一部見直しを行いました。
それを当時の解釈の最善と認められたら訂正元を残す意味もあろうと思いましたが、「誤読」レベルのそれであったので修正という形をとることにします。

はじめに


この記事は、自分を救済するための記事だ。
(というか物語を受けたあらゆる感想や言語化という行為のすべてがかもしれないが……)

当然この前書きの向こう側においてネタバレの配慮はしていないし、旧TV版・旧劇場版の内容をもとにした個人的な経験も大きく関わる。
文章の構成も整然さを無視した大変読みづらいものになっているだろうし、そこへの指摘は甘んじて受け入れようと思う。
しかし。

「作品から受けた印象は一人一人違う」
「作品を鑑賞するという行為自体がクリエイティブ」
という大好きな人の言葉に従ってこの僕なりの物語体験に信じる意味が、当然形の違うあなたの物語体験に別の視点を与えるものになってくれたら嬉しいとも思う。
もちろんそれは「わかる」という共感であなたの世界を広げるものでも、「違う」という反感でその感想をより強固にするものでも、どんな形でもいいと思う。そうした時に摩擦し、時に寄り添える人と人の営みへの祝福こそ、このシリーズに込められた祈りであろうから。




* * *



・「希望」と「絶望」

この映画のメインテーマのひとつが「現実に絶望し虚構に希望を見るか」「その絶望を知りながら「それでも」の希望を現実に見るか」という対立であることは間違いないと思う。

そのふたつの対立自体とその結論自体は旧劇場版「Air/まごころを、君に」(以下「EOE」)と重なる部分は大きいのだが、今作はそこにプラスアルファを加えた再構成をしているところがとても好きだ。

(もちろん、EOEが庵野監督をはじめとしたスタッフの当時の最善であろうという大前提の上で)


今作とEOEを分けると思う要因を、ここでは大きくふたつに挙げて書きたい。


ひとつは「アヤナミレイ(仮称)→"綾波"」(以下「"綾波"」)の人生で。

もうひとつは「絶望」を碇ゲンドウに背負わせ、「希望」を碇シンジに背負わせたことだと思う。


まず1つ目から。
彼女は災厄を乗り越え傷ついた世界の中で、それでも手を取り合い命を続け続ける人々の営みを目にし、自らもその中で生きることを学んでいく。
ケンスケが語るとおり彼らの生活は決して永続はしないし、何よりまず彼女の複製体としての宿命も同じく有限である。

ではいずれ終わるその有限な命の営みは果たして無意味だろうか?
いや決してそうではないはずだ。

またそこで行われる人々の営みは「単一個体として完成された生命」にはありえない、「不完全な命が互助により補い合う群体」でしか生まれえないものだ。


今作の「補完」の価値はEOEにおける「自らを傷つける他者の存在しない世界」に加え「有限を克服した永続」も強調されていたように思うけれど、彼女が見てきたものの、彼女の人生のまばゆさはそのまま直接的なカウンターのように思う。




そして2つ目。

EOEでも「自らを傷つけうる他者をそれでも望む」というテーマは描かれていたが、あくまでもそれはアスカという他者の代表者との決定的な摩擦による絶望から始まった、シンジの経験に基づく内的世界の中の「他者に絶望するシンジ」と「シンジが抱く他者への希望を象徴するカヲル・レイ」によるいわば自問自答によって出たものだった。

しかし今作はその主張対立は彼の自問自答ではなく、「他者が存在する世界に対する恐怖」を共有する他者であり親である碇ゲンドウとの対比、「シンジ対ゲンドウ」の対話によって描かれる。


EOEの碇シンジは、最終的に希望を抱きはしてもそれまであまりに絶望を経験しすぎた。
根付いた恐怖はもう一度相対したアスカという他者の前で発露し、結果として頬に重ねられた手の熱からその命を絶つことも選べないのに、かといって彼の中に根付いた傷の経験がアスカという他者を否定させ、首に手をかけさせてしまった。

そこで重要になってくるのが前述した「"綾波"」の人生だと思う。

たとえ原点自体はプログラムされた宿命でも、彼女の経験と意思から発した行動がシンジを外の世界に踏み出させる最後のひと押しになる。
彼はそこでケンスケとの、トウジとの「仕事」を通して世界と向き合い直していく。

彼女が経験した「群体としての人類」であればこそ生まれる営みの尊さや、「罪人たる己にも手を差し伸べる誰かはいる」という希望は彼女から、拒まれ続けたSDATのようやくの授受を象徴的に碇シンジに手渡される。


そう。今作の碇シンジは、きっとEOEの彼よりも強い「希望を選び続けるだけの根拠」があるのだ。

「これは捨てるものじゃなく、返すものだったんだ」という台詞とともに「"綾波"」からシンジに返され、そしてゲンドウに手渡されるSDATというシーケンスが象徴的だが、今作でシンジがゲンドウの絶望に反論できる背景にあるのは間違いなく「"綾波"」の人生なのだと思う。


ゲンドウとシンジに共通する「他者がいる現実の拒絶」を象徴するものと定義された新劇場版のSDATが紆余曲折を経て、「それだけじゃない」という答えとともに本来の持ち主である碇ゲンドウのもとに返ってくるのはとても美しい帰結であると思う。


今作がEOEとは異なる地平にたどり着けたのは、きっと主題となる対立と結論自体は同じでも、それをEOEのように「内的世界における自問自答」、碇ゲンドウ碇シンジという「同じ傷を共有する分身」でありながら、「重なりながら異なる経験をもって分化する個と個」の対話をもって描いたからなのだ。

ではEOEは単なる今作の下位互換なのか?といわれればそれは違うと断言できる。EOEもまた当時の庵野監督をはじめとしたスタッフの最善だったはずだ。それについては後述する「くりかえし」の章でもう一度言及する。


・「イマジナリー」と「リアリティ」、「神」と「人」

この映画のキーワードが「イマジナリー」&「リアリティ」であることも、虚構で現実を塗りつぶそうとするゲンドウと、あくまでも現実に希望を見ようとするシンジの対立から、その戦いが虚実入り交じってマイナス宇宙で行われることからも疑いはないと思う。

ただあくまでも否定しているのは「虚構への逃避」であって、「虚構」そのものではないと、「虚構に希望を抱いて生きること」では断じてないと僕は思う。


碇父子の戦いはミニチュアで構成されたセットの中で行われる。
それはあの情景がイメージ、「つくりもの」であることのわかりやすい示唆ではあるが、庵野監督の特撮好きという嗜好も大いに関わっているとも思う。


少し話が逸れるが、エヴァンゲリオン初号機の猫背のイメージは初代ウルトラマンの「中の人」、古谷敏さんの有り様が反映されたものだし、「○分の活動限界」はわかりやすくウルトラマンだ。

新劇場版でもアダムスのデザインにウルトラマンのカラータイマーが取り入れられていたり、エヴァ13号機vs初号機の図は「ウルトラマンvsにせウルトラマン」を思い出さずにはいられない。

閑話休題


ともかく、エヴァンゲリオンには庵野監督の特撮から受けてきた影響がコピー、ないし発展して取り入れられていると思う。

今作で取り入れられたミニチュアセット演出に僕が見たのは、庵野監督の虚構にイメージを触発されてきたこれまでの自分の、何よりそんなイマジネーションをくれた虚構への肯定だ。

現実には存在しないものを描いた虚構は、しかし現実に存在しない希望を見る人の営みでもあることも真なのだと思いたい。


「現実を越える理想が現れたとき、そこに革命が起こる。」という言葉がある。


今作はそんな希望がいくつもの実例をとって描かれる。

神の敷いたレールを覆す決定打になるのは、神が創造しなかった、そして人の想像によって生まれる3本目の槍だ。
パリ市街を復興させるのは、前任者の誰かが描いた夢を引き継いだ人の戦いだ。

ここにはない理想をイメージし、現実をそこに近づける力。
誰かが描いたそれをバトンとして引き継いで、より先へと進めていく力。

それは完全な神にはありえない、不完全であるがゆえに「先」を思い描く人なればこその可能性だ。
だからこその人による神との決別、ネオン・ジェネシスのはじまりはあるのだ。


・「くりかえし」、そして「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン

さらに今作で印象的なものを挙げるとすれば「くりかえし」だと思う。
表題にも反復記号が使われ。
作中で鈴原ヒカリが「同じことの繰り返しでもいいの」と直接口にしたり。
旧TV版・旧劇場版の映像を意識したカットが取り入れられたり、その展開をなぞるようにキャラクターが動く瞬間がある。

わかりやすいのがEOEラストの構図を意識しながら、しかし真逆の結末に行き着いた今作の式波アスカとシンジだ。
本質的に同質であるがゆえの理解があり、同属であるがゆえの反発があり、またそんな相手への解像度がアスカ→シンジにのみあるというギャップの存在が大きいがゆえにあの結末に行き着いてしまったのが旧シリーズの惣流アスカとシンジだった。
しかし今作では異なる別人というかたちをとりながら、「その先」が描かれていると思う。

EOEラスト、アスカは自らの首を絞めるシンジを憎むどころか、むしろ頬に手さえ添えてみせる。結果としてシンジは途中で折れてしまい、そんなシンジに「気持ち悪い」をただ一言こぼすアスカで物語の幕は閉じる。
だが今作のシンジはアスカが怒っていた理由を「助けることも、殺すことも選ばなかったから」と解釈・言語化し、アスカはそれに「すっきり」する。
ここだと思うのだ。
EOEのシンジに「選択」はない。「殺さなかった」のではなく「殺せなかった」のだ。
きっとアスカにはそれが彼の意思による選択であれば殺意でも受け入れる意思はあったものの(だからこそ伸ばされる手)、結果としては前述のとおりである。
そんな「選択の有無」という境界線に行き着くのが今作のシンジだし、それによって終わることも始まることもできなかった関係にピリオドを打って、未来に進むのが今作のシンジとアスカなのだ。

ところで新劇場版シリーズを立ち上げるに当たって庵野監督が出された「所信表明」には、こんな一節があった。

「「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。」


今作では、チルドレンたちによる「卒業」が描かれた。

アスカは終われなかった恋を終わらせて、ケンスケという理解者のもとへ。
カヲルは自らの救済のかたちの自覚に行き着き、シンジのシンジ自身による救済を受容する。
レイはシンジのために続けてきた戦いを終える。
このふたりはラストの現実で寄り添い生きているさまが描かれた。
そしてシンジは彼らの旅立ちを見届け、すべてのエヴァンゲリオンを処分する。
マリは彼を助けに駆けつけ、ラストで彼と生きる現実に踏み出していく。

ついに描かれた彼らの旅立ちは、まさしくEOEまでの流れを汲み、そこから世界と向き合った経験を宿した庵野監督をはじめとしたスタッフの方々による「くりかえし」によってたどり着けた地平だと思う。

ところでジュブナイルにおいてロボットという舞台装置に課せられる役割のひとつには、「いつかいらなくなるために必要なもの」があると僕は思う。
彼らの青春の終わりまでに寄り添う存在。

エヴァンゲリオンには、(少なくとも旧作においては)肉親の魂が込められた母胎のメタファーとしての役割があったように思う。

受け手の少年少女の感情移入先として「少年少女」としてデザインされたのがチルドレンだったけれど、エヴァンゲリオンはあまりにも長くそれが続いてしまったように思う。
(その普遍性はもちろん祝福するべきものでもあるのだけど)

「読み手の感情移入先たる少年少女としてエヴァに乗る」が「読み手の感情移入先としてエヴァに乗るために、いつまでも少年少女であり続けなければならない」という「呪縛」としての意味合いを持ち始めてしまったのがこれまでだったと思う。
そんな彼らの青春の卒業。母胎からの卒業。エヴァンゲリオンというロボットからの卒業。
彼らが旅立っていく原点がフィクションの撮影現場のようなことを思えば、エヴァンゲリオンという虚構からの卒業という意味も読める。

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」は送り手たちによるシリーズの総決算としての意味合いももちろんあるけれど、チルドレンたちの作中的・メタ的な意味合いを複合的に内包した「卒業」を意味するコピーでもあったのだと、僕は思う。


さいごに

そんな彼らの卒業を前に、ラストで実写映像で表現された現実に歩み出したふたりも前に、じゃあ僕も卒業を……とは思うけれど、この先ゲンドウが恐れたような現実を前に一度も膝を突かない自信はない。

だからその時は、この映画に一旦戻ってきて、また歩き出そうと思う。
そんな「くりかえし」を肯定してくれるのがこの映画だったし、「さようなら」は「また会うためのおまじない」と形容してくれるのもこの映画だったはずだから。

そんなわけで、ひとまずの「さようなら」を。
それを僕にとっての「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」として、この記事を終わりたいと思う。
(……というのは、あまりにも自分に甘すぎるかもしれないけれど。)