ぜくしぃちゃんのブログ

「人生という冒険はつづく。」

劇場版ウルトラマンジードのジャグラス・ジャグラーに感情が無限になってしまった話

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※この記事には「ウルトラマンオーブ」シリーズ及び「劇場版ウルトラマンジード つなぐぜ!願い」のネタバレが含まれます

 

 

劇場版ジード、とても良かった……TV版の結論であった「朝倉リク=ウルトラマンジードの親(ベリアル)にとっての息子、一つの命、一人のヒーローとしての自立」を尊重した上で、そのせいで生まれてしまった過ちに屈してしまった彼がもう一度立ち上がる物語というTV版からさらに一歩進めた、後日談として満足な出来でした。

 

それを踏まえた上で、「この映画があくまでジードの劇場版である」という大前提を押さえた上で、この記事ではジャグラス・ジャグラーというキャラクターについて、この1ファンの主観と願望から語っていきたいと思います。

 

前置きが長くなってしまいました。本題に入りたいと思います。

私がこの映画での彼の描かれ方に嬉しかったのは、彼の「光」にも「闇」にも属さないという独特の立ち位置が守られていたところです。

 

彼はこの映画で登場する敵である「ギルバリス」という敵の打開策・「赤き鋼」をリクたちに託すという役割を担うわけですけれど、かといって彼が「正しい心」を持っているとは語られません。

劇中でも彼は「正しい心を持つものに応える」という「赤き鋼」には選ばれず、また彼もギルバリスを追っていたのは「ガイを超えるためだ」とラストで答えます。

確かにそれは一面では真実ではあるかもしれないけれど、それだけが彼のすべてではないと私は思っています。

 

そんな思いが浮かんできたところはいくつかあります。

一つはギルバリスの核が持つ「ウルトラマンの力が通用しない」という事実。(そして彼は、ウルトラマンではない存在です)

一つは「飽きた」とぼやき去るより前、巨大化が解けた直後の彼の憤りが滲んだような叫び。

(「飽きた」のなら、戦わなくていい口実ともなりうる力の消耗は望ましいことでもありこそすれ憤ることではないはずです)

さらには、自身の無力ゆえに守れなかった命を前に絶望してしまったリクに毒づくところです。

ここで彼は、「アイルが持つ証には命を増幅させる力がある」という話をリクに投げかけた上で、それでも立ち上がれない彼に毒づきました。

彼が最後に語った「ガイを超える(その過程としてギルバリスという巨大な敵を倒す)」という目的を考えるなら、何も聞かずその力を使って巨大化してしまえばいい(またその力にも限界はあるでしょうし、リクにその分を分け与える余裕はないはず)であろうに、このステップは明らかに不必要です。

 

ここに彼が持つ、劇中でギルバリスがすべての知的生命に対して指摘した最たる「矛盾性」「不完全性」があると思っています。

 

そしてそれは、彼もリクと同じく「大切なものを喪う痛み」「無力な自分への怒り」を知っている存在だからだと私は思っています。

リクに「アイルの持つ証には命を増幅する力がある」という話を持ち出す不要な一手を踏んでしまったのも、彼にかつての自身を重ねてしまったからがあるのではないか……そう私は思っています。(目が覚め自身の無力を呪うリクを、彼は意味ありげに見つめています)

彼が背負ったそんな痛みが描かれたのが外伝「ORIGIN SAGA」でした。

「光」は相棒であった(そして自分より劣っていたはずの)ガイを選び彼は選ばれず(これが赤き鋼を前にした際の「またこのパターンか」の発端でしょうか)、さらに彼はミコットという自身を慕う命が目の前で奪われたことを境に歪んでいきます。

人の善性を信じることから決別し、ただ「力」で争いの元を断ち切ることを選びます。

それはあくまで彼の「守りたい」という願いゆえの決断ですが、その姿はウルトラマンたちに「光の存在の戦い方ではない」とまで否定されます。

「守りたい自分の何が間違っている」「選ばれなかった自分」「相棒に追い抜かれていく自分」「何も救えない自分」……あらゆる現実を前に闇に堕ちていきます。

本編「オーブ」では「すべての命は滅びればいい」とまで口にしますが、これは彼がそんな痛みに耐え切れなかったゆえにたどり着いてしまった結論だと思っています。

それは「守りたい」というあまりに遠い理想を追い求める痛みに耐え切れず、そのすべてを投げ出してしまったが故に堕ちてしまった果てだと思っています。

無論彼があらゆる命を奪ってきた罪はどんな背景があろうと消えるものではないし、それが正当化されることはないと思います。

けれど前述したとおり、それだけが彼のすべてではないと思うのです。

オーブ最終回、自身が差し向けたマガゼットンとガイ=オーブの戦いの余波に巻き込まれそうになったナターシャを彼は救ってしまったことが明かされます。

「弱いものを守ろうとしてしまうのがガイの弱さだ、それなのになぜ俺は……」と、その選択をした彼自身も理解できない行動でした。

 

さらには劇場版オーブではSSPたちという人質を前に彼は動くことができず倒され、「正義の味方なんて、めんどくせえ」と不満げに独り言ちます。

 

これが彼が彼である所以だと思うのです。

「何かを守りたい」と願った彼も本当で、それを貫く痛みに耐え切れず闇に堕ちてしまった彼も本当で、「正義の味方なんて」と腐す彼も本当で……それでも「守りたい」という自身の根本を捨て去れない彼も本当だと思うのです。

「光」にも「闇」にも染まりきることのできない、どうしようもなく矛盾に満ちた、不完全な存在である彼ですが……それが彼の最大の魅力であると私は思っています。

そして、そんな彼も含めた数多の命が抱える「不完全性」への肯定こそのこの映画の最たるメッセージだったと思うのです。

 

ギルバリスは「過ちを繰り返し、いつまでも変わることのできない不完全な知的生命は滅びるべき」という結論のもとに人間を抹殺しようとします。

彼が抱いた懸念は確かに真実ですが、それがたどり着いた絶望を否定するのがこの映画でのクライマックスでのリクの言葉、そしてガイの言葉でした。

ライハは人にはやめろと強いるつまみ食いをやめられない、ぺガは悪戯の叱責からすぐに逃げる、レイトさんは星雲荘で仕事をさぼる……自分も、完全なヒーローにはなりきれず、日常では隙だらけ。

けれどそれだけが彼らの全てではない、と描かれるのがこの映画です。

喪われていく命を前に、自身が為せる事を為すために立ち上がれた彼らもまた真実でした。

そしてそんな人間だけでなく、「誰もが完全じゃない」と自身を含めたウルトラマンもそうだ、とガイは語りました。

ギルバリスの語る「不完全」という命が抱えるエラーを肯定した上で、その「不完全」ゆえに生まれる、「それぞれが繋がって補い合い、”善く”あろうとする心が誰にもある」という希望を彼は語ります。

不完全性は確かに命が抱える真実の一面ですが、命はそれだけではない。

ギルバリスの抱いた結論は「今」への絶望ですが、「未来」はそんな今が積み重なった結果でしかありません。

今に希望を抱かなかった結果に訪れるのは絶対的な停滞であり、より善い未来には決して辿り着けないのです。

これと同じ絶望に辿り着いたのがかつてのジャグラーだと思いますし、そこから踏み出し始めたのが今のジャグラーであると私は思っています。

 

欠点を抱えるからこそ生まれる、「支えあおう」「善くあろう」と願う心、「そばにある命」を守るために立ち上がれる人の善性への希望こそ「僕たちは、”みんなでウルトラマン”なんだ」というリクの言葉に込められた想いだと思っています。

そしてその言葉は、ジャグラス・ジャグラーという命にも平等に当てはまる言葉だといいなと願っています。

 

いくら闇に身をやつそうと、「正義の味方なんて、めんどくせえ」と忌々しげにぼやきながらも、一度諦めたはずの「守りたい」という願いを捨てきれない矛盾に満ちた彼。

そんな自身の矛盾に気づいているのかいないのか、「俺は変わってなんてやるものか」と投げやりにガイにこぼす彼。

「変わらないな」というガイの言葉はどこか嬉しそうで、そんな彼の「変われない軸」としてある善性に向けられた言葉であるといいなと思っています。

 

当然彼の悪ぶった言葉が真実であるかもしれず、これは私の色眼鏡ゆえの感情かもしれないですけれど、それでも。

 

 

赤き鋼に選ばれることはなく、「正しい心」には遠いかもしれない存在である彼ですが……

 

彼がそして一度は諦め、そしてこの映画で描かれた最たる希望、誰もが持ちうる「ウルトラマンの資質」は再び、彼の中で育まれているのだと信じたいです。

そしていつかそれを、彼自身の意思で肯定できる未来が来るといいな……と祈っています。

 

そんな不完全な彼の、矛盾に満ちた彼への祈りをもって、この文を終わりたいと思います。

 

ジャグラスジャグラー………………愛してます!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!