ぜくしぃちゃんのブログ

「人生という冒険はつづく。」

檀黎斗について。

 

私は今日(この文面を書いている時点で)、「仮面ライダーエグゼイド アナザーエンディング ゲンムVSレーザー」を見てきました。

見ました。見ましたとも。すごいものを見せられました。

あれは、愛の映画です。愛の神話でした。

そうとしか形容できない感情をなんとか言葉にするべく、こうしてブログを書こうと思った次第です。

ネタバレの危険性が大いにありますし、本文に関しては追記以降で。

また、この記事の内容はあくまで私の主観によるものです。キャスト・及び制作陣の意図とは一切関係ない、1ファンの単なる感想であることを前もって記しておきます。

 

 

 

※本記事には「仮面ライダーエグゼイド」本編・および現在公開中の映画「仮面ライダーエグゼイド・トリロジー アナザーエンディング」の重大なネタバレが含まれます。

 

 

 

 


檀黎斗は、人間のことを深く愛していた神様だったんだな……と思いました。

あくまで彼なりにですけれど。アナザーエンディングが「神話」と称されていた意味が、やっとわかった気がします。

 

そんな感想を抱きはじめたのが、彼が屋上で独り佇んでいたのを見た時です。

「このゲームに挑むプレイヤーはいないのか」「私は生まれる時代を間違えた」と呟く彼はとても寂しげに見えて……考えてみれば至極当然のことではありますが、すべてのゲームはクリアされるためにあり、それには「プレイヤー」が存在しなければならないんですよね。
そして神様は、それを崇める誰か・恵み/罰を与える誰かがいなければただの自称の産物です。
神もゲームも、相対化される何かが存在しなければまったく意味を成さないものです。
それを踏まえると、彼のゲーム制作に対する姿勢に一貫するものが見えてくる気がします。


彼のゲームにはプレイヤーに対する「クリアの余地」を残されていたように思うのです。
仮面ライダークロニクルのラスボス・ゲムデウスにはクロノスという対抗策が与えられていました。
そして今回、彼が変身したのは「レベルビリオン」でした。ムテキやクロノスと違い、あくまで数値で測れる強さです。ここに大きな意味はあると思います。
パラドwithポッピーで彼は原初のバグスターウイルスの力を手に入れましたし、やろうと思えば自分用のムテキの上位互換だろうと作れたはずだと思うのです。
クロノスやムテキのようにレベルの概念を超えた最強の力を作ることもできたはずの彼は、なぜか数値化しうる範疇に自身の力を留めました。


その意味が、彼が「神の恵み」をいたずらに自身からは振りまかなかったこと。また九条貴利矢が指摘した彼の「大嘘」にあると思っています。
彼が才能に固執した大きな理由は「医療は母を救えなかったから」だと言及されましたが、ここで疑問が残ります。
彼はすでに消滅者たちを意図的に選別して救えることがブレスナでの小姫復活の一件で描写されています。
消滅者の復活という偉業を果たしたことで、すでに彼の望みは果たされていたように思います。それで檀櫻子を復活させることでもできたはずです。ですが彼は檀正宗に「愛する妻を救って見せろ」と詰め寄ったり、あくまで他者=プレイヤーにその実現を託します。


そうした理由とは?そこにあるのが、「クリエイター=神」である彼なりの「人類=プレイヤー」への愛だと思うのです。
ゲンレザラスト、彼は貴利矢に「復活」というエンディングを与え、またその復活から消滅者の復活への希望を人類に抱かせます。まるで自身が倒されることを予期していたかのようです。
彼は「神=クリエイター」として、「人=プレイヤー」自身の手で未来を掴み取ることを望んでいたように思うのです。
世界における神は創造者であるクリエイター、そしてそこに生きる人々はプレイヤーです。
世界においても、神様はいたとしても人に何も与えることはありません。ゲームにおいてもそうです。プレイヤーが何かを手に入れるためには何かしらの条件が付きまといます。
医療の発展という偉業に際してもそれは同じと彼は考えていて、それはあくまで今を生きる人々の手によって掴み取られなければならないという信念が彼にはあった。
レベルをビリオンに留めたのは、ムテキという希望をドクターに残すため。檀正宗にクロノスのガシャットを取り戻す可能性を与えたのもそう。
あくまで人(プレイヤー)自身の手で、医療の進歩という未来(エンディング)にたどり着くことを望んでいたからだと、私は思っています。

(ブラックパラドの一件は彼の独断で、彼にとっては予定外の事象だったのかな?と思っています。そのために檀正宗にクロノスの力を手に入れる余地を与えた…のかなとか。)

だからこそ彼はあの屋上で孤独感を、また自身の存在意義への疑問さえ抱きました。

神を崇める人も、ゲームに挑むプレイヤーもいません。

自身を承認する親も喪い、人として生きていくにも独りぼっちの世界です。

だからこそそこで現れた、自身というラスボスに挑む九条貴利矢というプレイヤーは彼にとって最上の救いだったと思うのです。

ラスボスである自身に挑む彼というプレイヤーの存在が、ゲームをゲームたらしめる。

自身には思いもしなかった戦略でラスボスを攻略する。

神である自身に抗う彼という人間の存在が、人が自身の足で目指していく未来への希望を体現している。

子が自立するために親を乗り越えなければならないように、人はその生を自身で歩む生たらしめるために、神という上位存在を乗り越えなければならないのです。

これぞまさに神話です。

だからこそ、彼は自らそれを名乗ることを止めたのだと思っています。

彼は「人を試し、人によって乗り越えられ、その報酬として与えられるべき未来を人に託す」という神の命題を満たしました。

それが果たされたことで彼は神を名乗る必要はなくなり、ただの「檀黎斗」という人間として生を終えられたのだと思います。

「檀黎斗」という神の物語は、それを乗り越える人間の代表・九条貴利矢の存在によって完成したのです。

そんな究極の救済(Ex-aid)を成す九条貴利矢という存在が、檀黎斗という独りぼっちの神様に現れてくれたことはとても倖せな事実であると、私は思っています。

 

 

 

最後に。

 

本文中で触れたとおり、現実の世界もゲームという虚構も、人(プレイヤー)が自身の手で歩んでいくものです。

だからこそ彼にとってその二つは等価値であり、「ゲームと世界の合一」によって、クリエイターである神が君臨できる(=その才能を、自身を打ち破った人間=プレイヤーという挑戦者に託すことが出来る)未来を願っていたのだと思っています。

革命は「今」を否定する激情であると同時に、より良い「今」を望もうとする愛そのものなのです。

「黎斗さんはゲームを愛していた」

という台詞が劇中でありましたが、それはそのまま彼の世界への愛情でもあるのだと、私は思っています。

ゲームを愛するように、彼は世界を・そこに生きる人々を愛していました。

それは彼だけの一方通行の愛情であったのかもしれないけれど、それだけは紛れもない真実だと、私は信じています。

檀黎斗という神様のそんな愛の神話に出逢えて、私はとても幸せでした。

 

キャスト・スタッフの皆様、仮面ライダーエグゼイドという世界に生きるすべての人々、また「檀黎斗」というキャラクターに一番近い距離で向き合い続けてくれた岩永徹也さんという、そんな神話の送り手の皆さまに感謝の念を捧げ、この文を終わりたいと思います。