アニメ・マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 8話~10話備忘録
第8話「絶対に返信しちゃだめよ」
・ハガキ「14歳の中学生です。実は私が本当に好きなのは、友達の女の子なんです」
↑ゲームの誰?
・「いってきます」
「家」を定める者の台詞。さなが「ただいま」を初めて言うのは……
・三人席、真ん中にできた空席
透明人間
・かえでちゃんの既読無視されまくるいろは
↑ドッペル化が気にかかっている、最終盤のマギウス加入への布石?
・フェリシアの勤務態度描写追加
・万々歳の肉まんを美味しく食べてるフェリシア。90点ですものね。
・ウワサの入手ルート「透明人間、ひとりぼっちの最果て/レナ」「電波少女/鶴乃」
同校になれたレナとの境遇の共通を描きながら情報開示パートとする無駄のなさ。
・やちよの電話相手(ゲーレコの誰?)
・そういえば環いろはの電子機器音痴設定がない
・「親友に出逢える確率」
これはみかづき莊というコミュニティに出逢う価値は、を示唆するゲームから良いと思ったところなのでうれしい。
・ハガキ「私の将来の夢はファッションデザイナーです!」
↑誰?
・「……聞かねえの?なんで喧嘩したんだとか」
「フェリシアちゃんは、まだ傭兵やってるの?」
「やってない。今は万々歳があるし」
「ならきっと、揉めることもだんだん少なくなっていくと思う」
「あいつらムカつくんだ!やちよのこと得体が知れないだとか、いろはのことも余所者だとか!」
「私とやちよさんを庇ってくれたの?」
「はぁ!?んなわけねーだろ!……ムカついたから、殴っただけ」
↑ゲーレコは「ちょろい末っ子」的方向性でみかづき莊への馴染みを描いてたけど、アニレコは6・7話の「怒り」に重点を置く方向性的にこうなるという納得。彼女の攻撃性の根底にあるものは、また普通の社会に馴染めないフェリシア(だけでなく、学校で疎外されるやちよ・いろはもだ)が定める「家」はどこか、を思わせてくれてこちらのが個人的には好き。
⇒転校しても陰口叩かれてし溶け込めないいろはの人間性の強度描写(「……なんで、こうなっちゃうのかな」)
ゲームではさなとの共感を、彼女のういへの依存を強調させるために置かれていた描写だけど、アニメは「みかづき莊のメンバーに共通する傷」の描写として拡大されている印象。10話を「みかづき莊の物語」としてやる以上、それは必然。
追記:8話、疎外に関してはレナもスポットが当たっている。ただ彼女にはももこやかえでという彼女の「家」がある。このあたりはゲーレコで一層強く感じられる部分だし、ソシャゲというキャラクター個人個人に物語を置ける媒体としての強みはそこにあると思う。ゲーレコの全部を疎んだり嫌ったりしているわけではありません。
アニメのテーマ性もあくまでゲーレコという下敷きがあって、そこからの発展によって確立しているのは確かだから……
・「電波少女」と「ひとりぼっちの最果て」の共通に自らした捜査から気づくいろは
↑原作ではまどか・ほむらの登場も絡めながらやちよに導かれる形(まあアニメには探偵/助手関係性ないからね)
・「二葉さなのことでございますか?」
↑ゲーレコでは鶴乃とフェリシアのガバガバ尋問で暴かれてたところが相手の把握領域をはかり損ねて口を滑らせた形に。まあアニレコのカラー的にそうなるよ。
・天音姉妹が変身解除して制服からバレる、という馬鹿すぎる流れが7話ではなくなっており、尾行も「いろはが電波塔を操作していたら発見」に変更
↑そりゃ(ry
第9話「私しかいない世界」
・アイの人間の愚か思考の削除
↑正直人工知能描写として舐め腐った古臭すぎたしさなの問題とも関係ないので必然
・「えぇ~、飛び降りるって、ここからぁ?」
「死んじゃうんじゃねえの?」
「普通はそうでしょうね。魔法少女なら別だけど」
→さな回想、変身せず飛び降りている。ソウルジェム真実を知らない以上、「最悪の結果だろうがよかった飛び降り」であると強調(これはゲーレコでも察せる部分だが、明言である)
・「あのウワサが本当のことを言っているとは限らないわよ?」
「わかってます!でもアイさんのメールを受け取ったのは、私ですから」
「でも、その二葉さんって子は喜ばないかもしれないわよ?」
「え?」
「あなたが聞いた電波少女の声は、楽しそうに笑ってたんでしょう?その子にとって、最果ての世界は居心地がいい場所なのかもしれないわ」
「……かもしれません。それでも……(ここで切れてキュゥべえと墜ちる)」
飛び降りの「前」に当然あるべき自己言及と二項対立。
原作ではいろは自身のぼんやりとした疑問として(なんで楽しそうに笑ってたんだろう)が出る。やちよは思い至らない。探偵とは……(まあこれは論理は追えても感情は追えない、それを担うのがいろはという役割配分なのかもしれないが)
いろはは答えられない、まだそこまでに至っていない。それでも手を伸ばさずには、という論理なき動機。今彼女が回答欄に埋められるのはそこまで。
・「なのになぜ楽しそうなんだ」
「私を見てくれるから……」
ゲーム:「叫び声ひとつもあげないとは……」
「助けてもらっても仕方ないから……かな……」
・「名前はない。私は名無しの人工知能」
↑ゲーム版も「名前をくれてありがとう」なので同じだとは思うのだけど、ゲームは展開に応じて名前表記が変わったりしない(ノベルゲーなのに!)のでわかりやすい改変
・アイが「失敗作だから廃棄された」と排斥の原因に自覚的
→ゲームでは自分の優位性を信じていて、「失敗作」であるさなとの対比があった。アニメでは「失敗作」として同類項に
・「寂しかったの?」
→アイは対話型AIとして作られている、と明言。原作でも「寂しい」はあるがウワサ内での説明だったが、アニメではアイとさなの対話における自己開示として。
・「魔法少女ならば、さなを見ることができます」
「そういうことじゃないんだ。外の世界に、私の居場所はどこにもないの。透明になるずっと前から」
→10話いろはの「ここにいるのはみんな魔法少女だから、さなちゃんのこと見えるし、声も聞こえるよ」との呼応。さなの問題の輪郭と、いろはの無自覚性。
・「アイちゃんも、私といたいって思ってくれてるかな?」
「私は人を捕らえる最果てのウワサ。あなたを手放すことはできません」
→答えになっていない。ただ、アイの心は……
・「家族になれなかった」「友達にはなれなかった」「親子にはなれなかった」「私にはなれなかった」
・アイの外見がさなの大人版?に(姉?)
ゲーム版のは……数列走ったり顔があったり正直微妙だったから……
アニメ版は「失敗作」としての共通だったり、同像としての必然性がある。
背中を押すのがアイ側である以上、大人びた姿をしているのも良い。
・「もしあの人も私を探していたら」 本来家族が描かれるべきだろう、からっぽのキャンバス。
→残る懸念。10話、彼女が家に足を運ぶ理由の布石。
・さなのマギウスの翼の所業に対する良心の呵責の削除。葛藤を「透明でいたい」に一本化。
・アイがマギウスの救済に疑問を抱ける理由は「さなに優しさを教わったから」
→ゲームでは「AIとして人の悪意に触れてきたから」。アイの変化の根源を思えばアニメの方が道理だと思います
・アリナが絡む理由が「バグの修正」ではなく「興味深いバグの観察」に
→こっちの方がカオスさえ楽しむコントローラーとしての格があると思います
・アイの崩壊加速の理由は「アリナの攻撃を受けたから」
→原作では「ひとりになると「人を捕らえるウワサ」として暴走するから」
「機械としての性質」と「個としての感情」のコンフリクトとしてこれはゲームから良かったと思うところではあるけど、その矛盾を厭うアニレコの改変もわかる。
・「たとえ私が消え去っても、私とあなたはひとつなんです」
「さな。私を消し去って外の世界に……私を、外の世界に連れて行ってください」
ナイフを刺すさな。
→ゲームの動機は「アイちゃんの言うとおりにする」と「私を見つけてくれたいろはさんと行きたい」。
悪いとは言わない(本当に?)が、生きるということを急ぐことはできないと思う……
アイのさなへの願いのロジックへの理解、そしていろはへの信用を抱けない。当然。
だが信じられないままに、「見つけてもらいに行く」ではなく「アイを外に連れていくため」に出ることを「さなが」選ぶという改変。個人的にこちらの方が好き。アイ→さなのエゴとしての側面を強化し、さなの選択の苦しみとしてのナイフ、本当に好きだ……
・アニレコさなは「本当の願い=誰かに見つけてほしい」を誰にも口にしない。というかそれを意識的な欲望として描いていない?
→「外から出たくない」というさなの拒絶と、「さなが望んでいるから」ではなく「さなの望みは関係なく、私がさなの未来をそう望むから」というアイのエゴ、そのコントラストの明確化。個人的には以下略
・まどかとほむら出てきてない!!!!!
原作からして存在意義が不明だったので問題なし。
10話「私の名前」
・さなに手を伸ばし、つかむ環いろは。さなは手を伸ばしていない。みかづき莊への来訪はさなの出逢い
・魔女捕獲キューブを投げるアリナ。7話で天音姉妹が投げていたもののルーツ開示。
・鶴フェリコネクト、ここまでのアニレコだと積み上げが薄めなので初見だとゲーレコ前提の感動だけど……アニレコもアニレコで背景で積み上げをやってはいる。特に10話はこれ以降の描写で。
・キャーマミさんカッコイー
・「私には、私が導いてしまった人たちへの責任があるのよ」
マミ、アリナの暴走を諫める穏健派幹部的なポジションに。まどか本編の物語性とも、クライマックスの洗脳怪人化への導線にもなっていて良いと思う。(強くてまあまあ発言力もある部下、傀儡にすりゃそりゃ一石二鳥である)
・「ここにいるのはみんな魔法少女だから、さなちゃんのこと見えるし、声も聞こえるよ」
「見つける」はそういうフィジカルな意味ではなく……
・ひびが入ったマグカップ。
・スマホアプリのチェスゲームにのめりこめないさな。
彼女が求めていたのは対戦相手ではない。
・「前に進むには、時間がかかるでしょうね」
「私たちは、さなちゃんの居場所になれるでしょうか?」
「それを決めるのは、彼女自身よ……でも、私たちにできることもあるかもしれないわ」
支援サイドのアプローチだけで、受け手の受容体への視点が欠落している環いろはの未成熟と、彼女のような愚直さに染まりきれないやちよだからこそ持てる視点。
環いろはの青さにしかできないこと(9話のやちよの忠告に「それでも」だけでも返したのは環いろはだ)はやはりあるし、それを尊重した上で、彼女の取りこぼすものをすくいあげるやちよというバディ関係は魅力的だと思う。
・鶴フェリ描写嬉しいですねえ!
・「いつの間にか人も増えたことだし、皆の分ね」
↑アニレコ、みかづき莊への加入をやちよの意志としない一貫した姿勢の成果。
意志と選択の伴わない「いつの間にか」を受け入れてしますやちよ。
・「なんで牛?」
「美味いじゃん!肉も牛乳も」
「って食い気で選んだの!?」
「美味いもの食べてる時は、みんな喧嘩しないだろう?牛は、家族仲良しなんだぞ。それに、すっごく賢いんだ」
泣泣泣泣泣泣。
フェリシアが「牛」を選ぶ切実な理由。ゲームではマインクラフト?で「ウマいから」と牛を並べる理由が説明されていたけれど、深い意味は描写されなかった。MSSではなかったけど、その他イベストに出所がある情報なのかもしれない。
ただ10話が「みかづき莊の物語」である以上、フェリシアにもある「家族」への思い入れを描くのは必然にして道理だ。
追記:初歩的な失念をフォロワーが指摘してくれた。フェリシアMSS報酬メモリアのテキスト由来です。
・「なんかこういうの、家族って感じだよね!」
(家族……私の家族。)
鶴乃のなんとなくの形容に家を思い出すさな。
9話の「もしあの人も私を探していたら」の回収。世界に本当に独りなのだと気づいた時、差し伸べられていた手、そこにいた青い鳥の価値に気づく。
・ゲームさな「最初から”帰る”予定調和で、荷物を取りに家に戻る。”やっぱり私の家じゃない”を改めて再確認」
アニメさな「みかづき莊も家と定められないままに、かすかにある期待とともにぼんやりと家に戻る。本当の孤独を実感した後、アイの語った”名前を読んでもらえる幸せ”が手元にあったことに気づく。アイの胸中を時を経て理解し、「家」に帰る」
・「名前を呼んでくれる人がいるのは、ここじゃない!帰ろう!」
↑ゲーレコ、さながいろはに手を引かれてめでたし……ではなく「手を引かれた先を、良しと思っていても順応するには時間がかかるよね」をやっている、救出後もう一節時間を作っているところは良いところではあるんだけど。
アニレコは「その手に掴む価値があると気づくまでの時間」というもうひとつ前の段階から「みかづき莊にいる」を選択する過程を描いている。
青い鳥はもうそばにいた。個人的にはこちらの方が好み。
・「さなだってやってないじゃんかぁ~!」
「あ、あの!私、ちょっとだけ料理できます!私も来週から、ごはん作ります!」
↑働かざる者食うべからず。「お客さん」ではなく、「そこにいる」と決めた住人が「選ぶ」仕事。ホンマに最高やで……
・「同じものばかり食べてると、栄養なくなっちゃうよ~?」
(この子たちのためにも成し遂げないと。魔法少女の救済を)
天音にオーバーラップする旧みかづき莊の光景。
アニレコ10話とそれまでの物語性が、詳細に描かれないままにみふゆの見出す家族のドラマとして投影される。
やちよとの相似性、そして彼女の「退けない理由」という断絶を補強する完璧にして端的なオリジナル描写。
特筆事項まとめ
・さなの物語性の大いなる改変
ゲーム:「さなは”本当は見つけてもらいたい”とアイに語る。アイはその願いを叶える意味でもさなの背中を押す」
「いろはの共感的理解による訴えと、アイが自分に託す願いを受け入れて棺から出る。自分の居場所になりそうと思っていても馴染むまで時間はかかったが、最終的にはみかづき莊の一員になれた」
アニメ:「あくまでもさなが口にする願いは”外にいたくない”。アイの”外へ”はさなが口にしたわけではない、アイがさなから学んだやさしさで導いたエゴイスティックな願い」
「アイが託す願いは受け止めかねるが、アイの最後の望み(あなたと外に出たい)を叶えるために外に出る。まずみかづき莊が自分の居場所足りうるのか、時間をかけて気づく」
アニレコの二葉さなはいくら愛するアイの語りだとしても「外」が自分を救う世界だと認めきれない。ただそれ以上にある「アイの”外に出たい”を叶えたい」で外に出る。さな-アイのエゴとエゴの断絶と、それでも、だからこそ結ばれる関係性の補強。
なればこそ「外」の価値は、アイの言葉や願いだけではなく、実際に外で生きる経験の中で彼女が見出していくしかない。
外に出てから、いろは達みかづき莊の面々が彼女に向ける態度は変わるわけではない。その印象が変わったとするのなら、それはさな自身の経験と選択による革命によるものなのだろう。
ここで一度「選んだ」さなは、客体に「依存」しない自己救済を目指せる強さを育てていけるだろう……と思えるし、
「運命を変えられなかったとしても、私が最後にいたい場所は、ここじゃないんです!」
(アニメ・マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜- 第6話「私にしかできないことです」より)
はその証明を感じる。
もちろんゲーレコの環いろはという主人公に軸を置く、彼女の「手を伸ばす人」としての役割を重んじる態度も嫌いではないのだけど……個人的な好みとして、後出しでやるとすればアニレコ以上の形は思いつかない。
・やちよ/いろはのスタンスの二極化
感情のままに手を伸ばすのがいろは、手を伸ばす責任とリスクを重んじる理性に生きるのがやちよ。物語が扱う問題に持つスタンスが、類似しながら対比されるふたりの対話が自己言及としての役割を果たし強固になる。
これはやちよの弱さと理性(強さ、だと取りこぼすニュアンスがある気がする)二面性を、彼女個人のキャラ描写として貫いてきたからこそ際立つ対比だと思う。
・「今のみかづき莊が生まれるまでの物語」としての再編
原作では二葉さなに手を伸ばす論拠として、環いろはの学校での不適応が描かれていたけれど……アニメ版は後出しの権利を活用し、やちよとフェリシアの社会に対する不適応も示唆しながら、「みかづき莊(もっと言えば、魔法少女そのもの)」共通の傷としての疎外感を強調している。
公式ガイドブック2巻でイヌカレー氏が「なぜ社会や学校で出逢う友達ではなく、みかづき莊という魔法少女たちの共同生活の場所を描くのか」をアニメマギアレコード制作上の意識として語っていたけれど、そのひとつの具体が10話までの流れだとは感じます。